2017年09月19日

「本能寺の変」直後の明智光秀の直筆手紙

                      
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歴史上、戦国時代での最大の謀反といわれている「本能寺の変」
織田信長の重臣であった明智光秀の謀反最大目的が、織田信長より京の
都を追放された第十五代将軍、足利義昭と室町幕府の再興であったこと
が示された手紙の原本が見つかったことが、三重大学の藤田教授が発表
され、インターネットでは大きな話題となっています。
戦国時代の歴史ファンにはたまらないワクワクなニュースです。

*インターネットより関連写真を抜粋させていただきました。






藤田教授によりますと本能寺の変、直後に現在の和歌山市を拠点とする
紀伊雑賀衆で反信長派のリーダー格、土橋重治(つちはし・しげはる)
氏に宛てた書状の原本のようです。
原本は現在、岐阜県美濃加茂市民ミュージアムが所蔵しており、形状や
紙質さらに筆致や署名、花押から明智光秀の自筆の可能性が高いと結論
づけ、本能寺の変に関する光秀自筆の書状は極めて珍しいものです。
書状は天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変から10日後の12日付
けでのものであることも判明しています。

*インターネットより関連写真を抜粋させていただきました。






織田信長から京を追放された足利義昭は当時、中国地方を支配していた
毛利輝元の勢力下にある現在の広島県福山市に居を構え、京に戻るとき
には土橋重治が協力することが示され、光秀自身も協力を約束する書状
内容であることも判明しています。
書状には、畳んで書状を入れる包み紙も一緒にあったことから、使者が
極秘に運んだ密書であることが推測されています。
光秀は書状の日付の翌日、備中高松城から引き返した羽柴(豊臣)秀吉
に山崎の戦いで敗れて、逃げる途中で討たれています。

*インターネットより関連写真を抜粋させていただきました。







「本能寺の変」の動機には、明智光秀と懇意であり織田信長と敵対関係
にあった四国の大名、長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)の窮地
を救うために行ったといわれる『四国説』や、信長の隙を狙っての自身
の天下盗りを狙った『単独謀反説』、さらには幼少期からの恨みを晴ら
『怨恨説』などの諸説があり、歴史家の間でも謎の部分が多いとされ
てきました。

藤田教授は「足利義昭との関係を復活させた明智光秀が、まず織田信長を倒して長宗我部や毛利らの反信長勢力を奉じられた足利義昭の帰洛を待って室町幕府を再興させる政権構想をもっていたのではないか」と話しています。

謎に包まれていた「本能寺の変」がいよいよ解明されるのか?


















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