経営コンサルタント 戸塚友康 の推進力ブログ! (株)ビジネス・サポートコーポレーション
経営コンサルタント 戸塚友康 のブログです。豊田市と浜松で経営者の学びの場「成果塾」を企画運営。
2019年01月03日
豊臣秀吉へ宛てた書状が歴史的な発見
↑↑↑↑↑ 『ポチッ』と、ひと押しの応援が励みになります。
新年、最初のブログ記事は昨年に発見されました羽柴秀吉(豊臣秀吉)
宛に書かれた書状が発見されたことを記事にします。
織田信長と激しく対立していた浄土真宗の僧侶である顕如が信長の死後
に羽柴秀吉に接近しようとして書いた書状のようです。
秀吉宛の書状はほとんど残っていないので、調査に当たった専門家は、「この段階で秀吉を権力のある人物と認識していたことがハッキリと判る大変貴重な史料である」と語っています。
顕如は「石山合戦」でおよそ10年にわたって織田信長と激しく対立し
、和睦の後に拠点とした大坂の石山本願寺を出て紀伊、今の和歌山県に
移り住んでいました。
*インターネットより関連写真を抜粋させていただきました。
書状の1通は、織田信長が討たれた「本能寺の変」の翌年の天正11年
(1583年)に書かれたと分析され、大坂に入ることになった秀吉に対しての挨拶のための使者を送るという内容のようです。
もう1通は、秀吉の昇進祝いに刀などを献上するという内容が記されており、秀吉が朝廷から初めて「位」をもらった天正12年に送られたと見られています。
顕如はそれぞれの書状を送ったふとに、大坂の中心部に近づくように拠点を移しており、秀吉に接近しようとしていたことが伺えます。
*インターネットより関連写真を抜粋させていただきました。
秀吉宛の書状については、豊臣家が滅亡したことから、ほとんど残って
おらず「秀吉が完全に天下を取っていない段階で権力のある人物だと認識して、政治的な運動をしていることがハッキリわかる。当時の政治状況がみえる貴重な史料です。」と指摘しています。
書状が残っていない理由は「大坂の陣」で豊臣家が滅亡した際に、城にあった書状もなくなってしまったと考えられています。
インターネットオークションに出品されていたという書状。
歴史上のロマンを感じる素晴らしい発見です。
ブログ村「コンサルタント部門」に参加しています。
ポチっと『ひと押し』してもらえると嬉しいです。
最近の記事
プロフィール
戸塚友康
過去記事
タグクラウド
カテゴリ
豊田成果塾 (56)
浜松成果塾 (18)
「成果塾」受講者の声 (7)
コンサルタントの選び方 (4)
コンサルティング (34)
評価制度運用-事例 (23)
能力賃金制度-事例 (12)
業績向上の仕組みづくり (579)
業績向上の仕掛けづくり (586)
顧客感動サービス-事例 (38)
優良企業の戦略 (725)
経営相談・アドバイス (129)
研修会・勉強会 (47)
講演会・スケジュール (46)
注目企業紹介 (831)
感動体験 (294)
人間力を磨く (292)
大自然の法則 (206)
戸塚友康コラム (811)
新聞・ネットコラム (1227)
倫理法人会 (67)
私のプライベート (381)
ブログ内検索
QRコード
アクセスカウンタ
読者登録